2012年5月23日水曜日

江珍寺?江瀧寺?江龍寺?はどこに・・・(前編)湖東三十三所(野洲郡三十三所)現地探訪_3

資料を集め、複数の資料から整合作業をしていると、同じ寺の名前なら問題はないのですが、資料それぞれ違った名前のお寺になってしまうと、どれが該当するお寺なのか判らなくなります。さらに地名が詳しく書かれていないと、現存しているのかすら判断できなくなります。
今回、現地調査したのは、旧中主町(現在は野洲市)の比江地区の観音様です。

文献によって、「江珍寺」「江瀧寺」「江龍寺」と呼び方が違い、第21番札所で比江にある寺までは判るのですが、どこにあって、現存しているのか、どうかわかりませんでした。


比江地区の場所は、野洲川の北東に位置し、地区の南にある「長澤神社」は、大宝3年(703年)創建(「長澤神社表録」)された古い歴史のある地区であることが判ります。
地図をもう少し拡大していくと・・・
最大拡大のひとつ手前の時に、地区の中央付近にある公民館のそばに「十一面観世音菩薩」の文字が現われます。  
「十一面観世音菩薩」は巨大観音像だったりするのでしょうか?
しかしそれなら、かなり有名なはずです。詳細な場所もわかるでしょう。
色々な想像が膨らみますが、おそらく「江珍寺」「江瀧寺」「江龍寺」は、観音像と何らかの関係があると思います。
手がかりがなければ、また調べればよいし、とにかく現地調査です。
 比江の自治会館です。集落が大きいので、自治会館も大きいです。
 そして左を見ると比江 老人憩いの家です。
道路は古い集落なので、すれ違いの出来ない部分もところどころにあり、細い路地なんかに迷い込んだら涙目になること間違いの無いところなので、車で来られる事を勧められないのですが、駅から離れているので、車ぐらいしか交通手段のないようなところです。
コミュニティーバスも通りますが、野洲駅からは2時間に1本のようです。
(旧)中主町そのものが迷路のような複雑なところなので、このあたりに来られる時は、十分に地図を確認されてから来られた方が良いです。
しかも目印の無いところを曲がるなどするので、地元の人に道を聞いても、説明に困られることもあります。
なんとかここに来られても、車を停められそうなのは、ここぐらいしかありません。
失礼して邪魔にならないところに車を置かしてもらい素早く 「十一面観世音菩薩」を探します。
位置的には、上の写真の老人憩いの家の裏手側のようですが、一旦道路に出ます。

比江防災棟が、道路からは目印になります。万一、地区で火災が発生した時、重要な場所になります。
比江防災棟の横がすぐ二又路です。向かって右の方に進みます。
 一軒おいて、すぐに何やら、それらしきものが見えました。
 『郡西国廿一番 十一面観世音菩薩』の立派な石碑です。
郡西国廿一番とは、湖東三十三ヶ所(野洲栗本三十三所)のことで、廿一番=21番なので、ここが探している、比江の観音様の地であることが判りました。
すると、この山門の奥に、いよいよ観音様が居られることになります。
その前に、この石碑の裏を見てみます。
「昭和三年二月建之 御大典紀念」=昭和天皇の御即位のお祝いをして建てた記念碑ということです。
ちなみに帰ってから調べたのですが、昭和天皇の御即位の時、この近くの野洲郡三上村で、大嘗祭(だいじょうさい)のとき、悠紀の神饌(しんせん)とする穀物を作る田が選ばれたとのことで、大変な栄誉あることだと、野洲郡あげての大祝賀だったと思われます。
また湖東三十三所も、昭和初期までは少なくとも続いていた事が判ります。
そして、山門をくぐると、地図にあった「十一面観世音菩薩」です。
どういう形で観音様が居られるのか期待が膨らみます。
 「観音様・・・。」
やはり巨大観音像ではありませんでした。
というか、先に見えるのは畑ですよね・・・。
「あれ?」やはり何もありません。
だけど、何やら広場のような場所があるようです。
広場です・・・。「えーと、観音様は・・・?」
 木の陰に小さな建物?(お堂?)が・・・。
そして説明の書かれたものが。
 木造十一面観音立像の説明です。
調べてみると、
<特別陳列> 仏 教 美 術 と 信 仰
平成22年1月5日(火)~2月2日(火)
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)

2年前に公開されていたようです。

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