集落の中を道路が曲がりくねっています。
古い集落には、よくあることですが、ここはそれ以上に迷路に近いです。
それもそのはず、ここには戦国時代、近江八幡のきぬがさ山にあった観音寺城が落城するまで、「市三宅城」があったとされるところで、永原氏の支城で、永原出雲守孝房が居城していましたが、織田信長の上洛阻止のため六角承禎に従っていたため、信長軍に攻められ、観音寺城と共に落城した歴史があります。
そのため細くて曲がりくねった道路の名残が存在しています。
敵が侵入した時に少しでも遅らせる目的なのか、十字には交わらずズレがある交差点です。
公民館の少し北側に、「市三宅 行者堂」があります。
お堂というより集会所のような建物なので、意識していないと気がつかないと思います。
そして市三宅の公民館です。駐車場があるにはありますが、集落の中心部で道を間違えると、人様の庭へ車で侵入するほど複雑なところなので、はじめて来る人は無理して目指さない方が無難に思います。(徒歩でも2,3回、道だと思ったら人様の庭に入っていきました)
なお公民館の駐車場は、屯倉神社の御旅所と神輿の収蔵庫の前の場所を兼ねています。
市三宅の集落に現存する唯一のお寺、安楽寺さんです。
ここにもありました。法然上人(円光大師)二十五霊場 第二十四番 御詠歌の書かれた額
選定された時代が古くないのか、金箔もしっかりと残っています。また調べる必要がありそうです。
散歩されている近くの方にお尋ねしても、「市三宅の観音さま」と言えば「安楽寺」と返事があるほど、ここ以外の観音様の居られるお寺はないようです。
ちなみに野洲の歴博も、慈眼院と安楽寺の関係性については不明だそうで、屯倉神社が安楽寺の守り神的存在と昔から意識されていることからも、慈眼院と安楽寺を比較しても、安楽寺の方が目立つ存在だったと思います。
だけどこの湖東三十三所(野洲郡西国三十三所)を開創した人は、あえて安楽寺を選ばずに、慈眼院の方を札所に選んでいます。より野洲郡内を色々と歩いてもらいたい意図があったのか、たまたま慈眼院に知り合いが居られたのか謎が残ります。
なお、安楽寺の門前にある国宝を示す道標は、「是ヨリ 七町西」(1町は約109.09メートル)と刻まれています。大正時代に建てられたようですが、どうやら700m東に離れた位置にあった道標が、ここに移動してきたようです。
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