近江西国の資料をまとめるために、ついでに湖東三十三所(野洲栗本三十三所)にも踏み込んでしまった当ブログ。昭和初期までは巡礼が続いていたということなので、調べれば何とかなるだろうと詳細地図をまとめていると、いくつか所在不明の場所が出てきました。
そこでまず気になったのが第3番札所の安楽寺。
グーグルなどの地図を見ると・・・
あれ?安楽寺が見つかりません。そこで、道幅などの情報がわかりやすいマップファンの地図を見ると
守山小学校の南東側に安楽寺の建物の形がわかります。
どういうこと・・・?
これは実際に確かめるしかありません。
そこで守山の銀座商店街にある平和堂へ、まず行ってみました。
(細い通りは一方通行の規制がある守山市街なので、直接車で行く方は注意が必要です)
昔はそれほど広くない駅前の商店街通りでしたが、最近、道路拡張がされたようですね。
アスファルトがまだ新しいです。
ここを左折すると守山小学校です。(車は南行き一方通行)
さらにここから琵琶湖方向へ次の交差点を右に曲がると東門院があります。(車は北行き一方通行)
歩道を整備中で、小学校も新しく改築されたようです。
いよいよ、安楽寺に近づいてきましたが、思わず安楽寺が教会になったのかと思いました。
小学校の向かいは守山市立保育園です。
そしていよいよ安楽寺ですが・・・。
その前に安楽寺の簡単な解説です。
旧栗太郡物部村(現 守山市勝部)の安楽寺は、中山道守山宿の東に位置し、寺伝には聖徳太子の創建とする。江戸時代の寛文年中(1661~1673)に、宇治の黄檗山萬福寺を 訪れた勝部村の三上氏某の求めにより、黄檗僧平石道樹(へいせきどうじゅ ?~1716)が住持となって当寺を再興し、以後近年に離脱するまで黄檗宗に属 したとのことです。
また俗称を、勝部の観音様とも呼ばれ多くの人たちの熱い信仰を集めたとも言われています。
小学校の向かいは守山市立保育園です。
そしていよいよ安楽寺ですが・・・。
その前に安楽寺の簡単な解説です。
旧栗太郡物部村(現 守山市勝部)の安楽寺は、中山道守山宿の東に位置し、寺伝には聖徳太子の創建とする。江戸時代の寛文年中(1661~1673)に、宇治の黄檗山萬福寺を 訪れた勝部村の三上氏某の求めにより、黄檗僧平石道樹(へいせきどうじゅ ?~1716)が住持となって当寺を再興し、以後近年に離脱するまで黄檗宗に属 したとのことです。
また俗称を、勝部の観音様とも呼ばれ多くの人たちの熱い信仰を集めたとも言われています。
そして何より国指定の重文でもある平安時代作と伝えられる木造千手観音立像 (画像は、栗東歴史民俗博物館の特別陳列 安楽寺の文化財 平成16年5月22日(土)~6月20日(日)より)がある歴史のあるお寺さんだから、「まさか無くなる事はないだろう」と期待が高まります。
「えっ・・・。」
「安楽寺・・・(´・ω・`)」
「うわーん、無くなってるやん」
「廃寺・・・。」
「もしかしてハイジ・・・。」
思わずがっかりしたのですが、マンションの駐車場の隅に何かがあります。
「あれ何?」
「教えて~♪おじい~さん♪」
「ん?!」
律儀に駐車場の番号が・・・
安楽寺のことも重要なのですが、駐車場を作られてからお堂が建ったの?
妙なことが気になる光景です。
駐車場に嵌め込んだような不思議な光景ですが、現在の安楽寺のようです。
『不許葷酒入山門』(クンシュサンモンニイルヲユルサズ)の石碑があることで、ここが黄檗宗の禅寺であったことの名残があります。また石仏も大きさを考えて並べられてありました。
またとなりの小さなお堂を見てみると、定期的にお参りがされているらしく、座布団や木魚が並べられてありました。
失礼してお堂の中を見てみると・・・
ちょっとわかりにくい・・・。後から画像を明るくしてみると
石仏が大切に御祀りされていました。
「えっ・・・。」
「安楽寺・・・(´・ω・`)」
「うわーん、無くなってるやん」
「廃寺・・・。」
「もしかしてハイジ・・・。」
「あれ何?」
「教えて~♪おじい~さん♪」
「ん?!」
律儀に駐車場の番号が・・・
安楽寺のことも重要なのですが、駐車場を作られてからお堂が建ったの?
妙なことが気になる光景です。
駐車場に嵌め込んだような不思議な光景ですが、現在の安楽寺のようです。
『不許葷酒入山門』(クンシュサンモンニイルヲユルサズ)の石碑があることで、ここが黄檗宗の禅寺であったことの名残があります。また石仏も大きさを考えて並べられてありました。
またとなりの小さなお堂を見てみると、定期的にお参りがされているらしく、座布団や木魚が並べられてありました。
失礼してお堂の中を見てみると・・・
ちょっとわかりにくい・・・。後から画像を明るくしてみると
石仏が大切に御祀りされていました。
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